学生時代は身近だった勉強ですが、大人になるとどうしても仕事中心の生活になってしまいがち。それでも学びへの意欲を持っている人はたくさんいるでしょう。
哲学者であり教育者でもある苫野一徳さんは「人間が学び続けることには意義がある」と語ります。しかし、考え方のノウハウがなければ、せっかくの学びのチャンスを見逃してしまうこともあるでしょう。
そこで、物事の本質を追求し、考え方を学ぶことのできる場が、「苫野一徳オンラインゼミ」です。オンラインサロンの狙いや学びの意義について、苫野さんにうかがいました。
教育の本質とは何か
――苫野さんは「哲学的に教育を読み解く」というテーマを探求していらっしゃいます。哲学と教育の関係について、考えをお聞かせください。
苫野一徳さん( 以下、苫野):私の場合、「教育とは何か」、「教育とはどうあるべきか」という根本的な問いを探求し続けてきました。この問いには絶対的な正解はありませんが、多くの人が納得できる考えを見つけることは可能です。
哲学とは、物事の本質、そもそもを洞察する学問です。社会とは何か、幸せとは何か、自由とは何か、愛とは何かなど、あらゆる物事に対して哲学的な思考を適用することができます。
本質を理解すれば、それを実現するためにできることが見えてくるでしょう。しかし、もし本質がわからなければ、思考の方向がそれてしまう。議論を有意義なものにして思考を深めていくためにも、まずは前提となる本質について考えることが大切なんです。
たとえば、学校教育の本質は、「すべての人が自由に生きるための力を育む場所」だととらえることができますね。ここで言う「自由に生きる」とは、誰もができるだけ生きたいように生きられることです。
しかし、自分だけがわがままに生きていては、他者の自由を侵害してしまう場面もあるでしょう。そんなとき「他者も自分と同じく自由に生きたいと思っている」と認識していれば、お互いの自由を尊重できるようになります。このようにお互いを認め合うことを、哲学では「自由の相互承認」と呼んでいます。
自由の相互承認は250年ほど前に近代の哲学者たちが提唱した、自由で平和な社会を築くための根本原理でもあります。人類が生み出した究極の英知といってもいいでしょう。人類は自由を一方的に主張し合ったために、歴史の中で何度も戦争をしてきました。
戦争をなくしてみんなが平和に自由に生きるためには、まずお互いの自由を尊重しなければなりませんが、法律や憲法で自由の相互承認をするだけでは十分とはいえません。考えの根本に相互承認を浸透させるためには教育が重要になります。だからこそ、公教育では相互承認の感度を育むような機会が本質的に求められるのです。しかしながら、教育は結局のところ、勉強でできるだけいい点数を取るといったように、その目的が矮小化されてしまいました。
そもそも学力とは、人が自由に生きていくために必要な力です。哲学者たちは、公教育は学力と相互承認の感度を育くむ場だと考えていました。しかし、実際には19世紀の植民地政策と殖産興業の影響で、国を富ませるための人材づくりが目的になってしまったのです。当時の影響は現代にも残っています。この状況を改善するためには、教育の本質をあるべき形に戻すための構造転換をする必要があると考えています。
遊びと学びは別物ではない
――ところで最近は新型コロナウイルスの影響で学校が一斉に休校になり、子どもたちの学びの機会が失われるとニュースで話題になりました。しかし、苫野さんはTwitterで「子どもたちにたくさん遊んでもらいたい」と発信しています。これは遊びが学びの機会につながると考えているからでしょうか。
苫野:遊びと学びには連続性があるので、分断すべきではないと考えています。そもそも遊びは学びの土台となる大切な体験です。
もっと楽しく遊ぶにはどうしたらいいか、異年齢の子が全員楽しむためにはどのようなルールが必要かなど、遊びの中で培われる考えは相互承認の土壌となります。徹底的に遊びこむことで、学びに大切な探究的な思考も育まれます。
そもそも幼児教育の基本中の基本は「遊びひたるから学びひたるへ」という考えです。しかし、小学校に行った途端に遊びと学びが別物にされてしまい、「今は勉強の時間で遊びの時間ではありません」と先生に注意されてしまう。そのため、勉強は楽しくないもので遊びは楽しいものだと、学びに対するイメージがネガティブになってしまうのです。
遊びと学びを結びつけるために、この幼児教育の基本を改めて見直したいと思います。
大人が学ぶことの意義とは
――子どもの頃は学校に通っていたので、どんな形であれ多くの人が日常的に学びに接していました。しかし、社会人になると仕事がメインになってしまい、学ぶ機会が減りがちです。一方で「何かを学びたい」という意欲のある社会人もいますよね。大人になっても学び続ける意義とはなんでしょうか。
苫野:従来通りの考えがいつまでも通用する時代ではないので、大人の学びにも大きな価値があると思います。あまり教訓めいたことを言うつもりはありませんが、学び続けられた方が圧倒的に豊かな人生になることは確かだと思います。
たとえば、私のオンラインサロンには教員の方が数多くいます。学校の教育現場は10年前と今とでは大きく異なっており、今後10年で社会構造やテクノロジー、子どもや家庭の多様性などがさらに変化していくと考えられます。ですから、今まで通りのことをやっていても太刀打ちできません。
これは教育に限らず、ほかの業界でも同じだと思います。だからこそ、大人であっても常に新しいことを学び続け、変化に対応していく必要があるのです。その方が楽しいですしね。
そのためにも、公教育で学び疲れた子どもたちをたくさん生み出していてはいけないと日ごろから感じています。「学ぶって楽しい」という原体験が、大人になっても学びたい気持ちを持続させるはずです。
――一方で、SNSでは老若男女問わず日々意見の主張をする機会が増えました。しかし、建設的な議論というよりは気に入らないものを攻撃する発信も目立ち、相互承認とは別の方向に進んでいる気もします。
苫野:だからこそ、本質を見抜くリテラシーを育むための学びが重要です。たとえば、新型コロナウイルスも、人々の関心によって見え方がまったく違ってきます。医学的な見解もあれば、政治的イデオロギーに影響を受けた意見など、さまざまな考え方があるでしょう。しかし、そうした考え方の多様性や、根拠となる学問的な知識を認知しているかどうかで、情報の受け取り方が変わります。
そして、リテラシーを育むためには、学知を吸収できる場が必要です。これまで自分が知らなかった観点を得ると認知能力が上がるので、より本質的なものの見方ができるようになるのです。
他者との理解について知りたかった
――そもそも苫野さんが哲学に興味を持ったきっかけはなんだったのでしょうか。
苫野:幼少期に「どうして自分は理解してもらえないのか」と考えていたことが哲学を志すきっかけでした。友だちができないのでますます意固地になり、周囲から距離を置いて孤独になっていく。しかし、心の奥底では、承認されたい、愛されたいという気持ちが渦巻いているという時間を長く過ごしました。現在私が「他者との相互承認」というテーマを探求しているのも、こうした孤独な幼少期を過ごしていたことが原因だと思います。
自分なりに文学や芸術、哲学に触れて理解されるための答えを見つけようとしていたとき、哲学者である竹田青嗣の本に衝撃を受けました。原理的な哲学の世界を知ることで、これまで自分が築き上げてきた思考の世界がすべて崩れ去ったのです。そして、「哲学を本気で探求してみよう」と一歩進んでみたい気持ちに駆られ、竹田青嗣に弟子入りして本質を考えるための思考や教養を学びました。
哲学の歴史は長いので、実は私たちが日ごろ疑問に思うことのほとんどに答えが出ています。しかし、多くの人はその答えを知らないので、ゼロから考え始めて深いところまでたどり着けずに終わってしまう。もし蓄積された智を知っていれば、最初から一歩進んだスタートラインに立つことができるはずです。
場所や時間にとらわれない学びの場
――本質を見つけるための議論や智の積み重ねという哲学の魅力を体験できる場所のひとつが「苫野一徳オンラインゼミ」ということですが、オンラインサロンを始めたきっかけはなんだったのでしょうか。
苫野:オンラインサロンを始めた直接のきっかけは、DMMの担当者さんからお声がけいただいたことです。それまではオンラインで哲学について語る場をつくろう、と考えていたわけではありませんでした。 しかし、オンラインサロンについてご説明いただいているうちに新しい学びの場としての可能性を感じ、哲学者・教育学者としてもチャレンジする価値があると思ったんです。
日ごろから講演の依頼をいただくことが多いのですが、スケジュールの関係でどうしてもお断りせざるを得ないときが多々あります。そのため、せっかくたくさんの方が興味を持ってくださっているのにお話しできないことを残念に感じていました。しかし、オンラインであれば場所も時間も関係ありません。海外に住んでいる方も、多数参加してくださっています。
また、哲学的な思考法がなかなか世間に浸透しないことに対する歯がゆさも、オンラインサロンを始めた動機のひとつです。多くの人が「哲学はとっつきにくい」と考えているかもしれませんが、長い歴史の中で培われてきた人間の英知の結晶に触れないのはもったいないと思います。哲学的な考え方をインストールすることで、より良い社会や教育を築き上げていけるはずです。
ですから、このオンラインサロンを通して、哲学的な思考を持った仲間を増やしたいと思っています。
――オンラインサロンを運営していて、どのような手ごたえを感じていますか。
苫野:オンラインでどこまで深い議論ができるのか最初は不安に感じていましたが、実際に試してみると、かなり深いところまで掘り下げられるのだと気づきました。場合によっては直接会って話をするよりも議論が深まることもあり、「オンラインサロンには学びの場としての可能性がある」と手ごたえを感じています。
対面では一人がずっと話し続けたり上下関係が生まれたりすることもありますが、オンラインでは全員が同じような画面でビデオ通話を共有しているので、対等な気持ちで会話ができます。ファシリテート次第では、お互いの話をしっかり聞いたうえで議論をするなど、全員が満足できる時間を実現させることができるんです。
そのおかげで、これまで直接会話できなかった方々から「オンラインサロンで一緒に学べるようになって嬉しい」という声をいただいています。先日は朝5時にアメリカから参加してくださる方もいて、場所や時間の垣根を越えて哲学について語り合える嬉しさを感じました。今振り返ってみると、オンラインサロンは当初想像していたものより何十倍も楽しいです!
ひとりで解けない問いを持つ人に来てほしい
――オンラインサロンでは議論のほかにも読書会や苫野さんの著書の校正など、さまざまな企画に取り組まれています。今後挑戦したい企画はありますか。
苫野:私だけでなく、参加者が自発的にさまざまな企画を発案してくださっているので、参加者主体の企画を今後もたくさん実施していきたいと考えています。たとえば、オンライン交流会や、最先端の教育を実践している学校の視察、哲学の奥義である「本質観取」などを予定しています。
本質観取とは、物事の本質を洞察するための方法です。この本質観取をリアルで集まってやりたいという声が参加者からも上がり、企画がされたのですが、今回の新型コロナウィルスの問題のために中止になってしまいました。でも、オンラインでやることが決まり、みっちり3時間、休憩もはさみながらやることが決まっています。本質観取はあらゆることに応用できる考え方なので、このノウハウを持った人が増えれば社会は少しでもよい方向に変わるのではないかと期待しています。
――「こんな人こそ議論に参加してほしい」という希望はありますか。
苫野:分野問わずどんな方にでも参加してもらいたいです。哲学的な考え方を用いればたいていの問題は解けるので、自分ひとりでは解けない問いを持つ人の力にもなれると思います。
また、定期的に経営者の方々の会で本質観取もやっていますが、哲学は経営にもとても役立ちます。哲学的な思考で本質を探っていくことで、経営者にとって大事なことやビジョンを実現するためにすべきことが見えくるからです。
そのため、教育に限らず、経営も含めさまざまな分野に興味関心を抱いている人と対話ができると嬉しいです。異なる分野の方が交わることで生まれる相乗効果にも期待しています。
――社会の形が複雑になっている現代だからこそ、哲学的な考え方を知っていると心のよりどころになりそうですね。
苫野:哲学に興味を持ってくださる方が最近増えてきているのは実感しています。先行きがわからない不安定な社会、誰も経験したことのない時代に突入していく中で、改めて物事を考えなくてはいけない機運が高まっているのだと思います。
たとえば、教育はこれから大きく構造転換していくので、「そもそも教育は何のためにあるのか」を常に意識する必要があるでしょう。経営に関しても、これまでと同じ方法ではうまくいかなくなるときがしばしばやって来るでしょう。そんなときは、サービスや会社の存在意義など、本質的な部分に立ち返って考える必要があります。
人間の英知の結晶である哲学には、原理的に物事を考えるためのノウハウがきちんと存在しています。哲学は考え方そのものを考える学問でもあるため、「どう学んだらいいのだろう」と悩んでいる人にも、ぜひオンラインサロンに参加してもらえると嬉しいです。
物事の本質を見つけるための哲学は、学びのスタートライン。徹底的に議論を深めることで自分のやるべきことが見えてくるのだと、苫野さんは語っていました。
「学びとは何か」、「人生とは何か」など、ひとりでは解決できない問いを持っている方は、ぜひオンラインサロンで議論に参加してみてはいかがでしょうか。