猪瀬直樹のオンラインサロン「近現代を読む」では、現代の日本人に欠けているリベラルアーツ、すなわち教養を身につけることを目的にしています。
「近現代を読む」では、各界の著名人を招いたオフ会を定期的に開催。
今回のオフ会には、先日亡くなった評論家の西部邁さんのご子息である西部一明さんをゲストに迎え、自裁死を選んだ邁さんの素顔に迫りました。
暗黒の河川敷、ふたりの子供は父を探しさまよった。
父・西部邁さんが亡くなってから、息子・一明さんは10キロも痩せ、眠れない夜を重ねたという。それでも、亡父について語る一明さんの言葉に重々しさはなく、親愛の情を感じさせる軽妙さがあった。一明さんの口からは、父のことをひたすらに考えつづけ醸成した言葉が、するすると放たれる。
眠れない毎夜、一明さんは父について考えを巡らせていたのだろう。そうでなくては、あんなにも流暢に父を語ることはできないはずだ。
一明さんの語る、邁さんが自裁死した夜は鮮明で生々しい。今年1月のある深夜のことだった。邁さんは娘(一明さんの姉)とゴールデン街にある馴染みの店をはしごし、何杯もウォッカを飲んだ後、娘を先に帰し、ひとり多摩川へと向かった。
川岸の桜木の脇に打ちつけた杭にロープをくくりつけ、自身の体を繋いだ邁さんは川に身を投げた。死因は心臓マヒ。酔いの回った体を、冬の冷たい川水が洗い、78年間動きつづけた心臓は止まった。
猪瀬が説明する。
「心臓マヒで死ねば水を飲みこまなくて済む。そうすると顔は綺麗なままなんです。太宰治も山崎富栄に毒を飲まされて入水した。だから太宰の顔は綺麗なままだったけれど、山崎の顔はぱんぱんに膨らんでいた」
作家であると同時に、卓抜したインタビュアーでもある猪瀬によって、一明さんの言葉が引き出されていく。
一明さんは「多分、姉のことを思って綺麗に死んだんだと思います。ロープを木に繋げていたのは、海まで流されて発見が遅れるのを嫌ったからでしょう」と話した。
邁さんの死んだ夜が明けると、一明さんと姉のもとには、邁さんから自死を告げる手紙が速達で届いた。手紙には死に場所が記されていた。しかしその手紙を受け取る前に、邁さんの子供たちは、多摩川に父を探していたのだ。深い闇の中、子供たちは父を探しさまよった。
なぜ一明さんたちは多摩川に向かったのか。
生前、邁さんは自殺するつもりであること、そしてその計画について何度も繰り返し語っていた。だから子供たちには、父が多摩川で死ぬことが見当がついた。
邁さんの娘はゴールデン街で父と飲んだ最後の夜、「先に帰りなさい」という父にすがったという。父を一人にしたら、死ぬかもしれないと思ったからだ。しかし頑なな父を前にして、彼女は家路につくしかなかった。
多摩川の河川敷は、邁さんと妻が気にいっている場所だった。邁さんの妻は、4年前に癌で逝去している。愛する妻との思い出が残る川辺で死にたかったのだろう、と一明さんは話す。
「妻が死んで、自分の半分がなくなった」愛妻家・西部邁の素顔
邁さんは妻の死を「病死ではなく病院死だ」と言っていたそうだ。痩せ細り衰弱していく妻の傍に、彼はずっと寄り添っていたかった。邁さんは自ら病室にベッドをこしらえ、マットレスと布団を持ちこみ、毎晩のように泊まりこんで妻の看病をした。
さまざまな機器に繋がれ、薬漬けにされていく。そうして迎えた妻の最期のときは、邁さんにとっては「自然な死」ではなかった。
邁さんは自分で自分の生命にけりをつけたかった。邁さんの病院嫌いは決定的なものとなった。老いていく体、否応無く死について考える日々、西部邁は自分の死に様を、自分で決めることにした。
愛妻を亡くしたとき、邁さんは「自分の半分が死んだ」と語ったという。
東京大学を去り、在野の評論家になった邁さんにとって、妻は公私に渡るパートナーだった。妻に原稿を読んでもらい、彼女のアドバイスを素直に取り入れた。
「父の文章の大部分は母あってのものだと思います。母親の意見とかフィードバックが父の文章にかなりの程度反映されていました。」邁さんは、妻が亡くなってから自裁死について本気で語るようになった。息子・一明さんにはそう見えた。
猪瀬自身も、2013年7月に妻・ゆり子さんを亡くしている。教師を辞めてからのゆり子さんは、全国で講演活動をする猪瀬に付き添ったという。長く共に過ごした妻を亡くした痛みを知る猪瀬は邁さんへの若干のシンパシーを隠さなかった。猪瀬は「西部(邁)さんの仕事のすべてを肯定するわけじゃないけど、西部(邁)さんはとにかく人懐っこかった」とその人柄を評し、彼の用意周到さを三島由紀夫の自決と重ねて、邁さんを偲んだ。
邁の息子である一明さんは、保守派評論家としての西部邁ではなく、ひとりの父・邁についてのみ語ることに徹した。高名な人間にも、人生と生活と家族があった。西部邁の素顔に触れることで、私たちはその思想の真髄にまた一歩近づけたのかもしれない。
猪瀬が「西部(邁)さんの死亡推定時刻は?」と尋ねると、一明さんは「多分、1時56分だと思います」と答えた。
「1時12分に、姉の携帯電話に着信が入っていたんです。だから死んだのはその後になりますよね。1時56分は母の死んだ時刻になります」
邁さんの死んだ時刻は、愛妻が死んだ時刻と同じだと、一明さんは半ば確信していた。「父は時間にこだわる人でしたから」。父の死を語る一明さんはずっと笑顔だった。あんなに寂しそうな笑顔を、私は初めて見た。
このようにゲストを招いて貴重な話が聞けるのも、猪瀬サロンの醍醐味だ。西部邁さんの死の真実を知ることで、サロンメンバーは自分の死に様、そして生き様について思索を深めたことだろう。
猪瀬直樹と直接対話! サイン本のプレゼントも
猪瀬直樹オフィスでゲスト・西部一明さんの話を聞いたあとは、オフィスからほど近い中華料理屋で食事会となった。
今回のオフ会には30人近いメンバーが集まった。それぞれのテーブルで近況を報告しあい、最近の社会情勢について意見交換をする。さまざまな出自の人びとが集うため、議論は多角的に深まっていく。
いつも猪瀬は自ら各テーブルを回って、サロン会員ひとりひとりと言葉を交わす。
気さくに話しかけ、本気で語りあう。猪瀬の気遣いのきめ細やかさに驚かされる。
猪瀬にとってこのサロンは一方的に与える場ではなく、自分自身も学ぶ場であるのだろう。サロンメンバーたちに敬意を払っていることが伺える。
あなたがもし、社会や日本について見識を深めたく思い、そしてよりよく生きたいと思っているのなら、猪瀬直樹の「近現代を読む」に加入すること勧めたい。生き字引であり、行動する作家である猪瀬直樹のもとで学べることは多いはずだ。
猪瀬直樹のサロンオフ会では毎回サイン本2冊がプレゼントされる。今回は『日本システムの神話』と『ジミーの誕生日』の2冊。もしあなたが猪瀬直樹の著作を数冊しか読んでいなくても、これから学んでいけばいい。
猪瀬が何よりも重視するのは、知的好奇心が多いことであり、今現在の知識量や経験値ではない。
これからあなたがどういう学びを得、どういう人間になり、どういう社会を作って生きたいのか、その姿勢が重要だ。
学ぶ意欲があるのなら、臆せずサロンに入ってほしい。きっとあなたの人生の糧になる経験が得られることだろう。